理想を語る小児科医たちの危惧が、世間の妊娠年齢の人たちにどの程度伝わるだろうか。ー第12回日本小児科学会倫理委員会公開フォーラムに参加して

3月6日7日の土日に2つのイベントがありました。(私たちが行っている医師対象の勉強会「FMC川瀧塾」(日曜午前)も加えると3つのイベントになります)

土曜の午後は、第4回新生児生命倫理研究会、そして日曜の午後は、第12回日本小児科学会倫理委員会公開フォーラム -出生前診断を考える- でした。

新生児生命倫理研究会でお聞きした講演もたいへん重要なもので、いずれこれにも触れたいと思いますが、今回は、後者の「出生前診断を考える」について考察したいと思います。

 実際に参加された方でないと詳細はわかりにくいかもしれませんが、チラシと抄録はここで見ることができます↓

倫理委員会公開フォーラム|公益社団法人 日本小児科学会 JAPAN PEDIATRIC SOCIETY

 本来なら、講演内容や話しあわれた内容について、細かく解説しながら論を進めていくべきなのですが、盛り沢山なため書ききれません。申し訳ありませんが、わたしの記憶に従って順不同でまとめて論じたいと思います。抄録を確認しつつ、その場の雰囲気を読み取っていただけるとありがたいです。

理想と現実の狭間で

 なんといっても小児科学会の倫理委員会が主催しているわけで、基本的に小児科目線だったんです。いやそれが悪いと言っているわけではなく、まったく正しい主張ではあるし、誰もが受け入れるべき考えであることは確かです。わたしたちの暮らす社会が、いろいろなハンディキャップを抱えている人がそれによって差別されることなく、皆が平等に分け隔てなく暮らすことのできる社会になるべきであることは、もちろんなんです。全面的に同意します。

 しかしですねえ、現実はどうなのか。今この時を生きて、今現在の社会、理想にまだ届いていない社会の中で必死で生きていこうとする人たちにとって、目指すべき将来よりも手前に、逃れられない現実が立ちふさがっているのではないだろうかとも思ったのです。理想の実現のために、そこをなんとか踏ん張ってくれ、と言えるのだろうか。

 今回、産婦人科からは、国立成育医療研究センターの左合治彦Dr.、東京慈恵会医科大学の佐村修Dr.(以上2名はNIPTコンソーシアムの立場)、昭和大学の土肥聡Dr.の3名が講演を行い、シンポジウム討論にも参加されたのですが、いずれもこの小児科学会の倫理委員会という場で意見を開示するにはイマイチ準備不足ではないかと感じました。どういうことかというと、小児科目線からの正論に相対する意見が出なかった。「産科医としては、小児科の先生方のおっしゃることによく耳を傾けて、勉強させていただきながら、協力して検査を進めていきたい。」という、協調姿勢は必要だし、一見その流れで前向きな良い方向性に向かっている印象で会が終了したのですが、それで良かったのか。産科と小児科がお互い協力しあって、この難しい問題に取り組んで行くということは、すごく大事なことです。しかし、だからこそ別の視点からの意見も示してほしかったと思うのです。小児科の先生方には見えていない世界があるはずなんです。

 とくに、この分野で産婦人科の代表選手のように目されている、左合氏には失望しました。産婦人科の医師だけでは情報提供が不十分で、小児科医が障がい児の生活実態などの話をしないといけないという意見に対し、産婦人科医は「そういう話はなかなか不慣れで、、」などと彼が言ってはいけなかった。厚生労働省の話し合いがなかなか決着がつきそうにないという話に対して、苦笑いなのか笑みを浮かべておられましたが、こういう場面で笑みを見せてはいけないのです。

医師が見て、考えていることは、本当に現実と一致しているか

 ここからは、発表者の発言内容から気になったワードを拾い上げて、考えていきたいと思います。

・「障害児=不幸」という考えが、通奏低音のようにひろがっている。(Dr. 加部)「選んで産む」という考えが根底にある。(Dr. 奥山)

 ほんとうにそうなのでしょうか。妊娠し、子どもを持とう、育てようと考えている人たちの中に、「障害児=不幸」という単純な図式が浮かんでいるでしょうか。社会の中にそういう考え方が蔓延しているでしょうか。確かに、そのように感じられる場面や雰囲気は、個々の集まりの中に生じることがあるかもしれませんので、そういうものを敏感に感じ取って、危機感を持たれることは理解します。しかし、少なくとも私が接している妊婦さんたちの認識はちょっと違うように思います。それぞれの方々は、それぞれの生活にあわせて、現実的に物事を考えて、悩みます。自分の生活の現実に照らし合わせた時に、障がいに対する悪いイメージをもとに考えてしまうと、結論はそのイメージに引っ張られることは事実でしょう。でも、妊婦さんたちは、中絶に対しても悪いイメージを持っていることが多いです。命を育みたいという気持ちは、妊娠を希望して妊娠した人なら皆強く持っています。何が幸せで何が不幸かなんてことは、個人の価値観の問題ですし、ひとりひとりの生活の中に幸せと不幸とが同居していることも、妊娠して診断を受けるまでの過程ですでに実感しておられると思うのです。妊娠中絶の決断も、そういう単純な思考で決定されているわけではありません。もちろん、妊婦さんの周りの方々や、社会を構成する多くの人の中に、このような考えが蔓延しているのであるなら、それは是正していく必要があるでしょう。

・現在、産科医が中心となって行っている遺伝カウンセリングの場では、提供されている情報が医学的情報に偏っているために、染色体トリソミーをもつお子さんに関してネガティブな印象につながっており、このために中絶率が高くなっている。(Dr.玉井はじめ複数の方々からこの意見がありました)

 たとえばダウン症候群の子どもたちや、成人に達した人たちが、どれだけイキイキと過ごしているのか、どのくらい就労できているのか(正規雇用に達している人が8人に1人という情報がありました)など、実態をきちんと伝えてほしい。という意見が多かったように思います。たしかに大切な情報だと思います。とくに、これから出産に臨もうという人にとっては、勇気づけられる部分もあることでしょう。しかし、まだ妊娠の初期段階で、妊娠中絶の選択肢もある方にとって、どの程度その意思決定に影響するかはわかりません。そこまでの具体的なイメージはまだできにくいと思うからです。8人に1人が正規雇用に達しているという事実は、小児科の先生方から見ると素晴らしい成果なのだと思います。しかし、8人中7人は定職につけないのかというイメージは、妊婦さんにとってはネガティブな印象になるかもしれません。遺伝カウンセリングの場で、どのような情報をどうフラットに伝えられるかは大事なことではありますが、短時間のセッションで人の考え方を大きく変えることができるかというとそう簡単ではありませんので、今現在の産婦人科医の説明のせいで中絶率が高くなっているという認識や、小児科がしっかりと実態を伝えることで中絶に歯止めがかけられるのではないかという期待感は、ちょっと違うと思います。こういった情報提供は、個々の遺伝カウンセリングよりももっと全体を対象として、広く社会全体に伝わるような形で行われるべきでしょう。日本ダウン症協会の方々は、だいぶ努力してイベントの企画などされていると思いますが、学校教育の場や、メディアをとおしてなど、いろいろな展開が必要だと思います。同時に、医学的な情報は、きちんと伝えられるべきでしょう。ネガティブな情報もポジティブな情報も、全て開示してあり、かつ多くの人の目に触れるソースはないものかと考えています。

・NIPTが優生思想を助長するのではないかという危惧、障害者とともに生きる社会の実現とNIPTの普及とは相反するものという考え(何人かの演者に通底している印象でした)

 このことが根源的な部分なのではないかと思いました。この点については、次の記事で書きたいと思います。

・中絶はやむを得ないものとして免責し、容認されている。(Dr.左合)

 この発言には、けっこう衝撃を受けました。中絶について、そういう捉え方をしておられたのですね。これぞまさに母体保護法指定医的発想なのでしょうか。「やむを得ない」のでしょうか。誰が責任を追わなくてはならないのか、罪を背負わなくてはならないのか、誰に免責する権限があるのか、「やむを得ない」と認められなければ容認されないので、産まなくてはならないのでしょうか。現在、産む/産まないを決めるにあたって、医師の許可のものとで、配偶者の同意を得てという手続き自体について、論議が必要なはずです。出生前検査の議論の本当の一丁目一番地は中絶の手続きの問題だと感じています。産科医の考え方も変わらなければならないと私は考えています。

・子どもは「授かる」ものから「作る」ものになった。(Dr.加部)

 この発言は、この世界に生まれてくる命にどう向き合うか、あたらしい生命をどのように迎え入れるかという、心に響く言葉でした。座長を務められたDr.奥山(日本小児科学会倫理委員長)も、感銘を受けておられたようで、残念なことだとおっしゃっていました。しかし、あえて私は言いたいと思います。ノスタルジックに過ぎませんか、と。

 自然に暮らしていれば、普通に妊娠して、子どもを産んで、社会全体で暖かく育てていく。それがあたりまえで、それが可能だった時代なら、子どもは授かるという考えで良かったと思います。しかし残念ながら、現代社会は、それを許さない環境になってしまったのです。今の若い世代は、ちゃんと産めるのか、ちゃんと育てられるのか、不安でいっぱいなんです。子どもはほしいけど、自分の生活だけでも精一杯のところに、今産んで大丈夫なのか?生活していけるのか?だから、ある程度計画して妊娠を考えないといけない。でも、物事は計画通りにいくものではありません。いざ作ろうとしてもできなくて苦しむ人も多いのです。

 そして、さまざまな不妊治療を経て、人工的な手段を駆使してやっと妊娠できた時に、「授かった」という感覚を持つ方は大勢おられます。「うまく作れた」なんて思っている人はむしろ殆どいないでしょう。だからこそ、胎児に問題が見つかった時に、大きな葛藤に直面するのです。その気持をわかってあげてほしいです。だから、授かるものから作るものになったという嘆きは、ある程度は時代の変化としてうけいれなくてはならないし、でもその実、決して根底では人の心はそういう考えにはなっていないということにも気づく必要があると思っています。

・内なる優生思想

 出生前検査・診断を考える上で、このワードは最重要です。次の記事で考察したいと思います。

 

今回のシンポジウム、ほんとうに考えさせられました。自分の中でも結論の出せない、難しく感じる問題がはっきりとあります。

社会をより良いものにしなければならないと思います。インクルーシブ教育、障害者雇用、差別撤廃、課題はたくさんあります。この国では特に難しい問題なのかもしれないとも感じます。でも、やらなければならない。

社会がかわらないうちは、検査などまかりならん、とお考えになることもわかります。でもじゃあどうなった時点でなら検査できるようになるのでしょうか?以前に、ある会議の場で同席した今回の登壇者のお一人が、「日本では無理でしょうねえ」と他人事のように言われたことをはっきりと覚えています。そうなんですか?最初から検査の普及を認める気がない、はじめに結論ありきじゃないですか。それじゃあ、個々人は犠牲にならなければならないのでしょうか。

社会を理想的な形に導いていくことと、個人個人を尊重することとが、常に同じ扱いになるわけではありません。時には相反することになるケースもあります。その相反することになるかもしれないことを同時進行していかなければならないのが現状で、そしてその行き着く先をどう描いていくことが、最善の道なのか。この社会をより良いものにするために、自分は個人としてどう振る舞うべきなのか、個人はどこまで尊重され、どこまでなら個人のワガママが許されるのか。社会を構成する皆が、常に考え続けなければならないと思うのです。