出生前検査は、中絶することが目的の検査なのか?

 

私にとって、忘れられない出来事があります。5,6年ほど前のある学会での出来事です。その学会の中の一セッションのテーマが、妊娠中における胎児スクリーニング検査で、4題ほどの発表の一つを私が担当しました。私は、当時の職場での検査データをもとに発表を行いました。全ての発表が出揃った後に、このセッションの座長をつとめておられた長崎大学の増崎英明教授(当時。現学長)が、わざと(私はそう感じました)挑発的な質問を誰にともなく(発表者全員になのか、その場にいた参加者全員になのか)投げかけられたのです。その内容は、

「この検査は、中絶するためにするんですよね。違いますか?」というものでした。

その時私は頭の中で咄嗟に、「いやそれは違う。」と思いましたが、どのように反論すれば良いのかすぐには頭が整理できず、しばし考えをまとめるのに時間を要し、反論に立つのをためらいました。場には少しの時間静寂状態ができました。『誰かが何かを言わなければならない、この中でも一番経験数が多く年齢も高い私がしっかり反論しなければ。しかし、ここで私が言い負かされては致命的だ。どのように発言すべきなのか・・』少しの時間の葛藤があり、完全には頭が整理できないまま、しかし意を決して立ち上がろうとしたその時、私より先に一人の若者が立ちました。高知医療センターの永井立平医師でした。彼は、一所懸命反論しました。自身の経験と実践について説明しました。増崎教授も少し感心されたような反応をされ、その場はそれで終了しました。流れ的にも時間的にも、私がそれ以上口を挟む余地はありませんでした。

これからしばらく、私はこの時すぐに発言できなかったことを悔いました。自分でも情けなく思い、自分を責めました。この仕事を続けていく以上、このような場にもっとしっかりと対応できなければならない。堂々と意見が言えないと続ける資格がない。同時に、すごく大事な宿題をいただいたと思いました。このような質問は常に出てくるもののはずです(この時はまさか増崎教授がそういう挑発的な言い方でこの質問を発せられるとは思っていなかったので、ちょっと気圧されてしまった部分もあったと思います)。いつでも誰にでも応えられるように、常日頃から答を用意しておくことが課せられた使命なのだと考えました。

今ならもっと明確に応えられます。いや、当時だって明確な答えは持っていたはずだし、基本的な考えはずっと同じなのです。でも当時はしっかりと言語化できていなかった。では、私の答はどういうものになるのか?

出生前検査は、中絶することが目的ではありません。

なんのために出生前検査をするのか、それは、「わからない」ことを「わかる」ようにするためなんです。今、妊婦さんのお腹の中では何が起こっているのか、胎児はどういう状態なのか、以前よりもわかることが増えてきた。それなら、わかることはわかっておこうというのが基本的な考え方です。妊娠の結果は、すべての方が同じように健康な赤ちゃんを産むことができるわけではなく、思っても見ない結果に終わることもあります。胎児死亡になるケースもあれば、病気を持った赤ちゃんが生まれてきて対処に苦慮することもあります。そういう事実があることはわかっているけれども、どうにもならない時代から、事前に調べることで準備ができる時代になり、より的確な対処方法が検討できるようになりました。

「わかった」結果、どういう対処ができるのか、どう対処することが適切なのか、この中に人工妊娠中絶も選択肢の一つとして入ってくるわけです。これを選択するのかしないのかは、それぞれの妊婦さんやその家族によって違います。所属する社会の状況によっても左右されるだろうし、信仰しているものによっても違うだろうし、持っている価値観によっても違ってくるはずです。あるいは医療の進歩によっても違ってくるはずです。きちんと治療できる見込みがあるのかどうか、治療できなかった場合にどう生きていくことができるのか、治療を選択しなかった場合にどのような社会生活が送れる世の中なのか、その時その場所の状況によって、選択肢は変わる可能性があります。しかし、きちんと考えて選択できるようにするためには、しっかりとした情報が必要なはずなんです。私たちが、「わかる」ことが大事だと考える所以はそこにあります。

「わからない」ままでいいではないか、「わからない」方が良いこともある。という方もおられるでしょう。そういう考えをお持ちのことも、私は否定しません。知らないでいたいことは知らないでもいいと思います。ただ、知っていればこうできたのにという後悔を後々する可能性があるのなら、いや知っておくことによってこういうメリットがありますよという話もしておくことが良心的でしょう。「知ってどうする」という人の中には、知ったことによるメリットを想像できていない人もいると思うのです。

実際に受診されるいろいろな方のお話を聞いていると、もちろんはじめから中絶を前提に考えている人もおられます。でも、実際にはそのような方はそれほど多くはありません。どちらかというと、ほとんどの方はただ漠然とした不安をお持ちで、結果に直面してはじめて具体的事実に向き合う姿勢になります。「中絶するために」検査するという意識の人は、あまりおられません。そうは言っても、はなから「胎児に異常があったなら、中絶当たり前でしょ。」的な方も一定数おられ、そういう方々と接すると、最終的に中絶を選択する方々を多く見ている私たちでさえ、やや悲しい気分になりますので、そういう日常をご存じない人の中には、受け入れがたい考え方だという印象をもたれる方も多いことでしょう。そういう印象を強く持ってしまうと、検査を受けること自体を否定的に語る方に流れてしまうことにつながるのかなあと思います。

わが国では、実際に人工妊娠中絶が数多く施行されており、そういう選択肢があるということは、ほとんどの国民が知っていることです。だから、胎児に何らかの問題があることを告げられた時、将来を悲観して、その選択が頭に浮かぶことは自然なことだと思います。今の日本社会は、妊婦さんにとっては自分たち若い世代が暮らしていくだけでも不安が多い状況なのに、病気を持つ子どもが生まれてきて果たして生活していけるのか、その不安はどれほど大きいことかと思います。本当に産んであげることが幸せなのか?と自問自答されることもあるでしょう。しかし、そんな中でも、胎児を中絶することには根強いネガティブな印象づけがされていて、「命の選別」といったような表現で良くない事のように語られることも多いですから、実は診療の場では、胎児の両親から妊娠中絶の選択肢に言及することは憚られる事の方が多いようです。このことを言い出すとしても、すごく言いにくそうにされていたり、「あまり良くない考えかもしれませんが、、、」と前置きをされた上でやっと口にされたり、という状況を多く経験します。報道などで、診断の結果◯割が中絶したとあっさり数字で書くと、皆同じようにカジュアルに中絶を選択しているような印象を受けますが、決してそんなことはありません。むしろ、診断の結果胎児の予後について悲観的なことが予想されるような場合には、私たちの方から中絶の選択肢についてもきちんと提示してあげないといけないと思っています。胎児の状態がどんなに悪そうでも、絶対に中絶はしない夫婦もいるし、十分に治療できると考えられる状態でもちょっとでも病気の心配があると中絶を選択してしまう夫婦もいます。夫婦間で意見の相違が出ることもあります。最終的な判断は、先にも述べたようにそれぞれの価値観その他で変わってきますが、医師の意見に左右されることも多いと思います。私たちは、誘導的にならないように、可能な限り客観的で正確な情報を伝える義務があると感じています。

医師の中には、中絶に言及することをためらったり、中にはそのことを嫌う人もいます。医師の側から中絶に言及することに対し、批判的な医師もいます。医師にもいろいろな人がいて、中にはすごく曖昧な超音波所見の解釈に基づいて、主観的に胎児には何かしらの重い病気があるに違いないからと、中絶を「安易に」勧めてしまう人もいます(こういっては語弊があるかもしれませんが、割と年配の医師にそういう方が多いように感じます)。こういうことは本当に謹んでほしいと思いますが、そういう医師になってはいけないという思いが強くなりすぎて逆に振れてしまい、中絶に言及するなどとんでもないという考えになってしまっている医師も多いようです。ここで何よりも大事なことは、どれだけ正確に診断して、主観に基づかない押し付けない態度で正確な状況を伝えることができるかです。そして、可能な選択肢については、しっかりと提示できるようにすべきでしょう。

しかし、まだまだ明確には答の出ないことはたくさんあります。そのような問題について、どのように考えていくことができるのか、どうやって結論を導きだせば良いのか、一緒になってその手助けをすることが、遺伝カウンセリングの本当の必要性につながるのです。