その診療方針、本当に熟考して決めましたか? 平気な顔で選択肢を奪っている自覚はありますか?

先日当院を受診された方から、ちょっと気になる話をききました。

この方は、妊娠したので受診した病院で、初診時の問診票に、胎児に障害があるかどうか心配なので、受けられる検査があれば受けたいと言ったような内容を記入しました。これを見た医師から、「障害がわかったら中絶を考えていますか?」と問われ、「重い病気ならそれも視野に入れている。」と応えたところ、医師の顔が曇り、「当院は、障害があるお子さん達を温かく迎えることを病院のポリシーとしているので、そのような考えの人は受け入れられない。」と言われたそうなのです。

この病院は、カトリック系の病院ではありません。このように考えている妊婦さんは大勢おられると思うのですが、みなさんどうされているのでしょうか。おそらくほとんどの方は、そのような問答をすることなく、ただ大人しく通っておられるか、あるいはそういう検査の希望は隠して、こっそり当院のような施設を受診されているかなのではないかと想像します。

実はこのような話はよく耳にします。例えば、出生前検査について質問をすると、医師や助産師がすごく冷たい態度になったり、露骨に嫌な顔をされたという話はよく聞きますし、そういうのは倫理的に問題があるとかなんとか説教されたという話を聞いたこともあります。

しかしそういう先生たちは、本当に崇高な理想を持ってどんな命も受け入れていける世の中にしていこうと考えておられるのでしょうか。私は決してそうではないのではないかと疑っています。何かカッコつけてそういうことを言ってるけど、もしたまたま超音波で見ていて何か異常に感じることがあった時、例えば自分の親族が妊娠して診察してみたら、たまたま胎児がむくんでいたりしたら、対応は違うのではないかと邪推してしまいます。(この考えはちょっと邪推しすぎかもしれませんけれど)

でも、もう少ししっかりと考えてみる必要があると思うのです。

『障害があるお子さんたちを温かく迎える』ことと、『重い病気があった場合には妊娠中絶も視野に入れている』こととは、相容れないことなのでしょうか。あるいは、

『障害があるお子さんたちを温かく迎える』ことと、『胎児に病気や障害がないか、あらかじめ検査して確認する』こととではどうでしょうか。

これらが両立していても矛盾はないのではないかと私は考えています。

妊婦さんが、出生前に検査を受けて確かめたいと考えただけで、『障害者を排除しようとしている差別主義者』で、『その根底には優生思想がある』と決めつけてレッテル貼りをするのは、偏狭な考えのように思えます。すぐにこういう風に考えてしまう人には、以下のような視点が欠落しているのではないかと思います。

1. まず第一に、妊婦さんたちは障害者を排除したいから検査を受けようと考えるわけではないこと。そうではなくて、胎児が健康であることを確認したいという素直な感情から検査を受けたいと考えている。(何しろ実際にかなり高い確率で問題がないという判断になる)

 しかし、そうであるがゆえに、本当に何かが見つかった時のことをよく考えていない、病気や障害についてあまりよく知らないまま、カジュアルに検査を選択しすぎという批判があります。まあそれはそうなんですけど、それはその人たちが悪いというより、社会の問題なのではないかとも思うし、ある程度仕方がないのではないかとも感じます。

 またこういう素直な感情の裏に、「無自覚な優生思想が隠れている」という批判もあります。人によりけりですが、そういう部分は確かにあるかもしれません。しかしこれも社会の問題であり、無自覚な本人を責めることは適切ではないように思えます。

2. そもそも妊婦さんたちは妊娠を継続したいというのが根本にある。胎児に問題があった場合には中絶すると決めているわけではない。

 胎児に問題が見つかっても、なんとか治せないかとまずは考えます。あるいは、治せない部分があっても、なんとか育てていけないかと考えます。最終的に中絶を決断された場合でも、そこに至るまでには葛藤があり、また中絶後もいろいろな感情がおこり、そういった諸々と折り合いをつけながら生きていかなければなりません。中絶の選択を非難することは簡単です。しかしこの問題で葛藤する夫婦は、それからの人生、どういう選択をしたとしても楽に生きられるわけではないのです。その状況に対して、より重荷を背負わせるような言動をしていることになっていないでしょうか。胎児の異常を理由に中絶を選択することを責める人たちは、ここに考えがいたっていないことが多いように感じます。なにかもっとカジュアルに中絶しているような浅い想像をしている人も多いのではないでしょうか。

3. 出生前に見つかる胎児の問題には様々なものがあり、その状況に応じた対処を考える必要がある。出生前検査・診断は中絶だけを目的としているものではない。

 ものすごく単純な考え方をしている人がいるような気がしています。出生前診断→染色体異常を見つける→見つかったら中絶することにつながる。という単純な思考です。胎児の診断はそう簡単なものではありませんし、見つかる問題にもさまざまなものがあります。早い段階から診断につなげることで、治療可能なものも増えてきているし、診断技術の向上が、治療方法の開発にもつながるのです。検査を行わないことはそういうことを放棄することにつながるのではないでしょうか。実際わが国では、出生前検査・診断があまり積極的に行われていないために、胎児の問題が見つかる時期が遅かったり、診断されないまま生まれてきて大慌てになったりするケースが多いのです。海外で盛んになりつつある胎児治療の進歩が遅いことにもこのことが影響しています。

 

多くの先進国とは異なり、わが国では出生前検査・診断が強く抑制されてきました。出生前検査を受ける人が増えてきたような印象を持っている人も多いかもしれませんが、実は日本では検査を受ける率はかなり低いのです。情報提供もあまりされていません。何しろ厚生労働省からは、積極的に知らせるべきではないと通知が出たこともあるし、日本産科婦人科学会のガイドラインにも、「質問されたら」伝えると書いてあります。

この出生前検査を受ける率の低さは、染色体異常を対象とした妊娠初期の検査にとどまりません。多くの先進国で、妊娠20週前後(だいたい18週〜21週あたりん設定されていることが多いです)の超音波検査が必ず行う検査として実施されている中、日本では一部の医療機関でしかそのような検査は行われていません。

この妊娠20週前後の超音波検査は、例えばイギリスでは、anomaly scanと呼ばれています。要するに胎児の異常(奇形)を発見することが目的という意味です。たとえばこの時期の超音波検査を専門家が行えば、18トリソミーの胎児は100%発見されるという論文も出ています(日本では見つからずに生まれてくるケースも多々あるし、生まれる少し前になってやっと見つかるあるいは疑われるケースも多いです)。

この検査、行なっていないところも多いのですが、もっと不思議なことは、一部の医療機関ではこれを行う時期をわざわざ妊娠22週以降に設定しているところがあることです。明らかに人工妊娠中絶ができない時期になってから検査しようとしているわけです。自分たちは治療を目的とした検査しか行わない、と態度で示しているわけですが、本当にそれが正しいのでしょうか。たとえば絶対に生きられないような病気があっても、妊娠を継続していかなければならないのでしょうか。

胎児の診断は難しいので、たまたまその時に見つかった所見から、治療可能な病気なのかそうではないのか、将来的に胎児に障害が残るのか残らないのかなど、的確に判断することは困難です。そして20週ごろの検査で何らかの所見があった時に、羊水検査を行なっても、染色体核型の検査結果が得られる時期は22週を過ぎるという問題も生じます。妊婦さんたちは短い期間で情報が不足している中、妊娠継続についての選択を迫られることがあり、これは大変なストレスです。医師も辛いので、そういう事態から逃げようとしているのかと邪推してしまします。

胎児の状態を的確に判断することは非常に困難なことです。発育・発達の過程における変化の速度ははやく、ごく小さな受精卵が38週後には3kg前後もある形と機能を持った赤ちゃんになるのです。その変化の中で見つかった問題が、どのぐらい重大なものなのか、将来どういう問題につながるのか、正確に判断することなどできないことだらけです。それでも私たちは、ある程度の推測ができるようにならなければなりません。多くの医師たちが経験してきたたくさんの情報をもとに、的確な判断に少しでも近づけなけれなりません。そうでないと産む方も判断のしようがないからです。しかし同時に、妊婦本人や家族は、完全ではない情報の中でどういう選択をし、どういう状況を受け入れていくかを判断する力を持たなければなりません。医師も患者も努力してよりよくしていくべきなのです。選択の幅を狭くして、なし崩しにすべきではないのです。

 

どれだけ出生前の検査・診断が発達しても、まだまだ見つからない問題は多いし、元気に生まれてきたと思った赤ちゃんでも、成長とともに問題が現れることもあります。障害を持つお子さんは常に存在しています。そういうお子さん達に温かく接すること、障害を持った人たちが分け隔てなく生きていける社会を作ることは、もちろん大事なことだし、ある意味当たり前の方針です。私たちの社会全体で考え、取り組んでいかなければならないことです。

一方で、胎児に問題があろうがなかろうが、自分(たち)が産んで育てていくことができるのかどうかという問題は、個々人の置かれている状況との関係で判断を必要とすることではないでしょうか。その妊娠を継続していけるかどうかを真剣に考えて、判断することも大事だと思います。ましてや胎児が何らかの問題を抱えていることが判明した時には、より真剣に考えなければならなくなるのではないでしょうか。

私たちには、生きていく中でいろいろな判断、いろいろな選択をしなければならない局面が訪れます。そのような時に大事な助けになるのはなんといっても正しい情報です。然るべき時に然るべき検査を行わないことは、情報を提供しないことを是とし、情報を与えるべきではないと宣言している事なのです。それで良いのでしょうか。

出生前検査に否定的な考えを持つ人たちの中には、母体保護法で定められている人工妊娠中絶を行うことができる要件の中に、『胎児の異常』は入っていないので、これを理由に中絶してはいけない。ということを強く主張する人がいます(そういうお医者さんもけっこう多いです)。しかし、現実には、胎児に異常が見つかった時には、いわゆる『経済条項』を転用して中絶が行われていますし、そのことは公然の事実であって、それで堕胎罪に問われた人はいません。実際には、なんの問題もない胎児でも『経済的理由』によって中絶されることの方が圧倒的に多い現実の前で、胎児の問題が見つかっている場合に、なぜか殊更に「胎児の命を奪うのは良くないこと」という非難をされてしまうことは、むしろ本来なら産みたいと考えていたであろう人にとって非常に辛いことではないかと想像します。この国の現在の一般的な事実として、『胎児の異常』が見つかった時に、『経済的理由』で妊娠中絶を選択することは、普通に行われていることなのです。このことが問題だと考えるなら、そういう現状に問題提起すべきであって、胎児の病気が心配な人を責めるべきではないと思います。私は逆に、もっと堂々と個々の状況に応じて妊娠継続すべきかどうかが選択できるように、母体保護法の内容をもっと明確にすべきだと考えています。母体保護法にはいくつかの問題点があります。これをなんとなく放置してきた状況を、そろそろしっかり議論する状況に変えなければならないと考えています。

日本中いたるところで、胎児に異常が見つかった時に、経済条項を使って妊娠中絶が行われている事実が存在する一方で、胎児の異常を理由に中絶を考えることさえままならないと責めて、検査を希望しただけで冷たくするような対応は、個人的な考えの押しつけに過ぎず、その個人的な考えに基づいて個々の妊婦が本来持っているはずの大事な判断基準・選択肢を剥奪する行為に他ならないと思います。そしてそういう対応の結果、もっときちんとした対処ができるはずだった胎児の問題を見落とすような事態が生じることが想像できていないのではないかと思うのです。