第54回日本周産期・新生児医学会 違和感の正体が少し見えてきた – 1

7月8日〜10日の3日間、第54回日本周産期・新生児医学会が開かれていました。私は10日にあったシンポジウム10『Inter-professional network 出生前診断を考える』に、シンポジストの一人として登壇しました。

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このシンポジウムは、自分にとってもクリニックにとっても、そしてこの国の現状を帰るためにも重要な機会になると考え、準備に集中していましたので、ブログの更新も約1か月途絶えてしまうことになりました。

シンポジウムを終えて、準備段階から本番まで、またこの学会の他のセッションにも参加しつつ、この学会でいつも感じる違和感の正体について考え続けていました。そして、その正体が少しわかってきました。

このシンポジウムで議論すべきことはいろいろとありました。医療制度の問題、医療に関わる職種の養成と雇用の問題、診療部門間相互の連携や意識のギャップを埋める問題、医療の地域間格差の問題、教育や社会的な問題など、短時間では結論の出せないことが多く、この場に参加した人たちもどの問題をどう議論すべきかという焦点を絞りにくかったのか、いまひとつ議論に盛り上がりを欠いた部分や消化不良に終わった部分もあったのですが、私なりに頭を整理することができる機会になりました。

Inter-professional networkということで、私がここでテーマにしたことの一つは、私たちの特殊なクリニックの原点となった、ボストン小児病院のAdvanced Fetal Care Center (AFCC)を中心とした、隣接するBrigham and Women’s Hospitalや地域で妊婦管理を行なっている医師との連携でした。この施設は主に助産師・看護師と遺伝カウンセラーによって運営されていて、様々な職種が診療に参加し協力しあう体制を構築しています。もう一つは、日本の妊婦診療に関係するガイドラインの問題点で、他の多くの国では全ての女性に胎児検査についての情報提供を行うことを第一の原則としているのに対し、日本では情報提供を積極的には行わない(「尋ねられたら答える。」というような書き方がされている、国際的にみると非常に奇妙なガイドラインです。)ことになっている妊婦診療のあり方を変えていく必要性でした。

私が非常に残念だったのは、著名な新生児科医である仁志田博司氏(慈誠会マタニティホスピタル名誉院長、元東京女子医大教授)の発言でした。我々の世界では、当ブログでも以前に取り上げた『仁志田の基準』でよく知られた医師で、最近では出生前検査に対する規制強化の立場での発言が目立つ方です。

18トリソミーに関連した議論に感じる違和感(1) – FMC東京 院長室

彼が私に投げかけた質問は、私の臨床的バックグラウンドを問うものでした。私たちの施設における診断技術の高さについてはよくわかったけれども、私自身に小児科のバックグラウンドがない(それにボストンのHarvard大学関連の病院に留学していた期間にMassachusetts General HospitalのDr. Skotkoとの接点がなかった)のは不十分だとおっしゃるのです。私は、ボストン小児病院には産婦人科がないにもかかわらず、非医師が運営の中心になっているAFCCが医師たちをつなげる役割を果たし、妊婦さんがその施設に集うようになっている事実や、これを参考にした私たちの施設では検査は主に産婦人科医が行っているけれども、遺伝カウンセラーが中心となって、小児医療の専門家やその他の職種、患者団体や支援団体、各種医療機関とのネットワークを築いている話をしているのに、その施設に小児をみつづけている専門家がいなければ十分でないというような先入観に基づいた決めつけのような言われ方をされたことがとても心外でした。幸い、私はトップバッターでしたので、総合討論までには気持ちを鎮めることができましたが、講演後しばらくは少し冷静ではいられませんでした。彼は、総合討論の最後にも、出生前診断の場に障害児の診療を行ってその生活ぶりを知っている小児科医が加わっていないといけないという発言をしておられました。もちろん、産婦人科医はもっと、自分たちが診断している疾患を持つ胎児が、出生後にどのような経過を辿るのか、よく知る必要があると思いますし、おっしゃっていることは大事なことだとは思うのですが、まるで「産婦人科医は全くわかっていないから任せておけない」とでも言いたげな発言は、この日のテーマであるInter-professional networkの構築に水を差すことになっていることには気づいておられないのでしょうか。私は講演のキーワードとして、『信頼』そして『リスペクト』を挙げました。『信頼』には、医師が違う診療科の医師や他職種のスタッフを信頼することと、検査を受ける人たち、一般の妊婦さんやその家族を信頼することの両方があります。もしかしたら自分とは違う人たちは自分の考えとは違った選択をするかもしれないし、場合によっては心情的に受け入れがたい結果になるかもしれないけれど、そういったことも含めて『信頼』を置いて自己決定のプロセスを支援することが、私たちに求められる姿勢だと話しました。しかし彼の発言には、産婦人科医や妊婦さんたちへの『信頼』も『リスペクト』も感じられませんでした。

疾患や障害を持つお子さんたちやその家族を守り、援助することはとても大事なことです。そのための仕組みづくりや社会の成熟のために、私たちは継続的に取り組まなければならないでしょう。しかし、そのことはそのこととして大事にしつつ、一方で個々の妊婦さんやその家族が、生まれてくる新しい命に関する心配・不安を解消するための手段を選ぶことについては、門戸を開くことが必要です。妊婦さんたちは自分で判断して自分なりの選択ができるはずなのです。もし現状が、出生前診断の結果、中絶してほしくない疾患であっても中絶を選択する方が多い状況であるならば、その現実は社会を映す鏡のようなもので、社会が変わるようにするべきでしょう。個々の妊婦さんたちの検査への門戸を制限したり、我慢を強いたり、責を負わせたりすることは、社会を変えるための方策としては、焦点がずれているとしか言えないでしょう。

出生前検査の普及に反対する人たち(医師を含めて)の発言を聞いて感じることは、その考えの根底に、産婦人科医と妊婦やその家族は、胎児に何か問題が見つかった時には比較的“安易に”妊娠中絶を選択するという固定観念のようなものがあることです。もちろん現実にそのような対応をとる医師や家族も存在することは私も知っていて、とても残念なことだとは思っています。しかし、出生前診断の現場で毎日仕事をしていると、実際にはむしろ妊娠中絶に対するアレルギー的なものが、すごく根強く染み付いていることが感じられます。学校教育の現場で、命の大事さについての教育(これはもちろん大事な教育内容だとは思うのですが、この内容に実は深みがないのではないかと類推しています)を受け、『中絶は悪』という考えが強く植え付けられているために、妊娠中絶を経験した人は強い罪悪感を背負わされることが多いし、中絶についてオープンに語られることはほとんどありません。マスコミの論調も、ほとんどの場合、『安易な中絶』を戒め、『命の選別』をするべきでないというものに占められています。中絶に至ったパーセンテージの数字だけにとらわれるのではなく、“安易に”妊娠中絶を選択する人は、決して多数派ではない現実をよく知っていただきたいと思います。

出生前診断をめぐる産婦人科医と小児科医との間のギャップについての違和感は、この日登壇された閑野知佳医師(埼玉県立小児医療センター新生児科)が提起された以下の問題点に起因していることがより明確になったように感じました。曰く、「新生児科医は胎児診断に対する興味・関心が低い、産婦人科医は新生児(出生後の経過・予後)に対する関心が低い。」この問題点は、彼女が胎児診断を行う新生児科医として活動する中で実感されたものです。埼玉県立小児医療センターは、隣接して建設されたさいたま赤十字病院と渡り廊下で繋がった構造で、この日私が例として提示したボストン小児病院とBrigham and Women’s Hospitalのような実例が、ここ数年ようやく日本でもできるようになってきたものの一つです。ここで提示された問題点が、この学会を通して解決の方向に向かうようになっていくことができればと感じたのでした。