検査を規制しようという発想は、どこから出てきて何が間違っているのか。

5月21日の記事の最後で予告していたテーマについて、ようやくまとめる時間ができました。6月の頭に、二つの学会(日本家族性腫瘍学会と日本超音波医学会)の学術集会がいずれも神戸で開催され、前者は当院の田村が会長という大役でしたし、後者でも私が座長を務めたり発表を行ったりと忙しく、ブログに手が回りませんでした。学会報告は、クリニックのfacebookページ(https://www.facebook.com/fmctokyoclinic/)で行っています。

 

以前から感じていたことですが、NIPT(いわゆる“新型出生前診断”)は、なぜ厳しく規制されるのでしょうか。

出生前の検査の方法には、このNIPTの他にも様々なものがあります。例えば、多くのクリニックで受けることのできる“母体血清マーカー検査(クアトロテスト、トリプルマーカー検査などが扱われています)”もあるし、羊水穿刺をおこなっている施設も数多くあります。超音波検査に至っては、(その質については医療施設ごとに大きな違いはあるものの)行わない施設は皆無と言って良いぐらいです。これらについては、何の規制もなく行われているにもかかわらず、NIPTだけが認定施設のみでしか行うことができないことになっているのは何故なのでしょうか。

この問題については、実は以前から何度もこのブログで取り上げています。例えば以下のエントリーと、その前後で論じていたことです。

drsushi.hatenablog.com私自身はもっと検査をオープンに受けられるようにするべきと考えています。決して無制限にどんどんやれと言いたいわけではなく、検査を扱う側も受ける側もきちんとした情報を得て冷静な判断ができる仕組みづくりは大事だと思いますが、それができていないからその体制が整うまでは規制しつつ進めていくという考えに基づいて規制するならば、その体制づくりの方向性が正しいのか検証し続ける姿勢や、一体いつごろその体制が整う計画なのか、明確にする責務があると思います。何よりもこの検査のメリットは、超音波検査や絨毛採取/羊水穿刺のような特別な技能を持つ医師が数多くいない地方であっても、満遍なく同等の検査を提供できるという点にあります。このことには、不十分な体制であっても急速に広まる恐れにつながるというネガティブな見方もあるようですが、地域差や情報格差、経済的格差によって検査を受けることができるか否かが大きく影響される状況を変える事ができるというポジティブな面の方が大きいと考えます。

いろいろな話を聞いていると、検査を規制すべきと考えている人たちの考えは皆同じではなく、実はいくつかの違った考えに基づいているように思われます。以下の3つが考えられます。

1. 命の選別にあたる。倫理的に問題がある。

2. 妊娠中絶そのものが受け入れられない。どんな命も尊い。

3. 検査結果に誤解が生じ、誤った選択につながる。

1と2は、同じようでいて、少し違います。1の立場は、人工妊娠中絶の要件として、胎児の異常は理由として適切でないという、いわゆる「胎児条項」がないことを尊重する立場であり、そのほかのやむを得ない理由による中絶は認めています。

胎児の異常を理由に人工妊娠中絶を行ってはいけないとおっしゃる方がおそらくよくおわかりでない点は、胎児の病気には様々なものがあって、ダウン症候群のようにしっかりと生きられるものばかりではないという点ではないかと思われます。たとえば胎児が無脳症だった場合はどうでしょうか。治療は不可能だし、生きていくこともできません。それでも妊娠を継続して出産すべきでしょうか。そのような極端な例を出すなと言われるのなら、13トリソミーでよく見られる全前脳胞症(大脳に左右にわかれていない部分があり、極端な場合には眼球も顔面正中に一つしかなかったりする)ではどうでしょうか。このような劇的な症状があっても、生まれてくる事が可能です。先天的な疾患には本当に様々なものがあるので、生きてうまれてきた後にどこまで治療可能なのか、どの程度生きられるのか、どこまで社会生活に適応できるのか、本当に予測が困難なケースがたくさんあります。一体どこで線引きができるのでしょうか。

検査をきっかけに染色体異常が判明した際に、中絶を選択するか否かはその検査結果を受け取った個々の考え次第です。検査を受けることと、その結果をどう判断するかとは本来は別問題のはずです。1の考えを述べる方からみると、検査の先にダウン症候群を理由にした中絶の選択があること自体が受け入れられないのかもしれません。しかし、だからといって、圧倒的多くの妊婦さんは、中絶を目的と考えているわけではないのです。単に、安心したいという素直な気持ちだけなのです。その先に中絶がある検査だという認識をしっかり持って考えて受けるべきとか、安心したいという気持ちの奥底には差別意識が潜んでいるなどの意見があることは理解します。しかしその問題は、教育や情報提供の充実など、もっと別の方法で解決していくべき問題であって、検査を受けさせないようにする、そこに安心を得る方法があるにも関わらずわざわざそのアクセスを制限するという手段が正しいとは私には思えません。その上、同様の目的でありながらより不確実な方法か、より確実ではあるがリスクを伴う方法にはアクセスできるのです。あまりにもアンバランスではないでしょうか。

2はどうでしょうか。2の考えの方がおられることは十分に理解します。この考えをお持ちの方にとっては、中絶につながる検査は受け入れ難いこともわかります。しかし、この議論は、NIPTの制限に関して持ち出されるべきではありません。むしろ人工妊娠中絶そのものの議論です。NIPTを規制する一方で、これとは別にもっと数多くの人工妊娠中絶が行われています。人工妊娠中絶の是非については、母体保護法の問題点も含めたそのものズバリの議論が必要でしょう。検査を普及させるべきという考えの私たちも、この検査を全員が受ける義務にすべきとは考えていません。あくまでも検査を受けたい人が、アクセスできる形を作るべきというのであって、同時に、検査を受けたくない人は受けない選択を自由にできるものであるべきでしょう。

3は、産婦人科の医師の間からもよく聞かされる意見です。日本産科婦人科学会の“指針”などにも記載されているので、こういうことを考えている人は多いのかもしれないなと思うわけですが、私はこれにはすごく違和感を持つのです。結局いま、「遺伝カウンセリングが大事だ」ということを言い続けている人たちのそれが大事だという根拠もこれなのですが、それこそ情報提供が十分になされれば問題はないはずです。いかにきちんとした情報提供ができるか、その下でいかに判断することができるか、に尽きるわけです。業界(この場合は出生前検査を扱う業界=産婦人科医の集団)をあげて情報提供に取り組むとともに、医療スタッフの再教育を行うことが急務です。日本産科婦人科学会としては、検査を扱う前提として講習を受けることを義務付ける仕組みを作ろうとしていて、これは評価できると思いますが、どのような講習が誰を対象に行われるのか、具体案はまだ明らかにはなっていません。

誤った選択につながるから、慎重に進めていくべきという意見には、一定の理解は示します。しかしここで問題なのは、誤った選択とは何か、正しい選択とは何かという評価が可能なのか、誰が判断するのか、ということです。何が正しくて何が誤りなのか、明確でないこともあるのではないかと感じています。そして、その判断基準にブレがある(医師の個人的考えが入ることがある)(本来、遺伝カウンセリングはそれではいけないはずなのですが、現状なぜかそういう傾向が垣間見える)から、検査前の遺伝カウンセリングが本当に適切に行われているのか、という疑念も出てきたりするのではないでしょうか。

私はこの、「検査を受ける側の人たちが誤解する、誤って判断する恐れがある。」という論調が出てくる背景には、人を信頼しない気持ちがあるのではないかと感じています。例えば検査を希望する人たちに対しては、「よく知りもせずにイメージだけ捉えている。」「安易な考えで検査を受けようとしている。」「安易に中絶を選択しがち。」という疑念を持ち、妊婦の診療を行なっている市中の産婦人科医に対しては、「収入のために適当に検査をしている。」「きちんと判断せずに安易に中絶を勧めて/おこなっている。」という疑念を持っているのではないかと感じています。もちろん、世の中にはいろいろな種類の人、いろいろな種類の医者がいますので、残念ながらこれに当てはまってしまう人もいるかもしれません。しかし、多くの人はしっかり情報収集・勉強しようとしていると私は信じたい。そして、それが信じられるような状況を作り出すことが必要なのではないかと思います。『専門医』と名のつく人たちが、「自分たちはよくわかっているが、他の連中はよくわかっていないから、自分たちの手でコントロールしなければならない。」と考えるのではなく、それぞれの現場にいる人たちもそれぞれ一所懸命考えていて、現実に向き合っているのだということをもっと知り、もっと信頼するべきなのではないかと思っています。